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家族

母のドレスはハリウッドドレス<元旦に母を看取りました>

「光の庭」主宰の杉下です。

元旦に母を看取りました。その一週間後に行なった母のお別れの会の様子をお話しします。

 

最初の曲は「踊りあかそう」です。

映画マイフェアレディの中で、これからの人生にワクワクする気持ちを押さえられない主人公が歌い上げます。

楽しんでポジティブに人生を生きた母でした。これから音楽と思い出話のお別れの会が始まります。

そして最後の曲は映画オズの魔法使いの「虹のかなたへ」でした。新たな冒険に向かう歌です。

バイオリンとフルートで演奏する中、出棺しました。母はこれから40年ぶりに父に会いに新たな旅をするのです。

実家のお寺さんも遠く、嫁いだ私の住む横浜で最期を迎えたので火葬まではこちらですることになりました。いろいろと考えて公益社さんの日吉にある貸し切りに出来る会館で、親族だけでお別れの会をいたしました。宗教のセレモニーはありません。

お別れの会は「母の人生」がテーマです。母がいかに生きたのかをみんなで語り合い、想いを共有します。すでに成人している孫たちが知らない母の話を聴くよい機会だと思ったのです。

母は千葉の出身で、兄弟も関東に居ます。皆様も高齢です。横浜までなら来てもらえます。幼いころから娘時代の話をしてくれるでしょう。

 

1日目は納棺師の丸山さんが母にエンディングドレスを着つけてくれました。

母のために半年かけて作ったエンディングドレス。通称<ハリウッドドレス>です。

家族も丸山さんの誘導のもと布ブーツを履かせたり、袖のファスナーを留めたりと着付けを手伝います。

お看取りの時には眉間にシワが寄っていたお顔もエンバーミングで笑顔の母に戻っています。私の携帯にあった笑顔の写真を幾つも葬儀社の方に渡していました。痩せていた頬もふっくらとしています。顔色もきれいです。エンバーミングはすごい技術ですね。

最期のお化粧も肌の色や紅色も生前のままで驚きです。

「ああ、お母さん。きれいですよ」

エンディングドレスの母を棺に移します。お顔にベールをかけて美しさに磨きがかかります。斎場の真ん中にたくさんの花に囲まれて安置されます。そして、ぐるりと皆が座る椅子で囲まれます。翌日は皆で母を囲みます。そして今晩は兄家族と弟家族が斎場で一緒に泊まります。

エンバーミングをしている母なので、棺の蓋は閉めません。まるで眠れる森の美女の様に花に囲まれて寝ています。

母と同居して、13年が経っていました。父が他界し子供たちが独立して、そこから35年以上、独居で孤食だった母です。私が実家に通うのも頑張っても年に10回ほどで、アルツハイマーの発症、そして病の進行で信頼できるヘルパーさんに支えられた生活も限界でした。毎日様子がわかり一緒にご飯を食べる生活をしたいと横浜に来てもらいました。たくさんの方に支えられて、仕事も介護も夫と頑張った13年でした。千葉の母親や兄弟に会いに連れていったり日常も出来るだけさびしくない様にしていましたが、最後はコロナ過での病院と施設にお世話になりました。ほぼ面会もできず、母はアルツハイマーで状況が理解できない中、施設のスタッフさんに守られ、心強い介護が頼みの生活でした。最期は老衰で亡くなったので自分の手でドレスを着せることが出来たのは感謝しています。

 

このハリウッドドレスは、母の人生を表したエンディングドレスです。

横浜で同居してしばらく過ぎた頃、だいぶアルツハイマーの症状も進んできた母に聞きました。「私、お母さんが亡くなった時に着るドレスを作りたいんだけど、どんなドレスが良いかな?」そしたら、にっこり笑って「かわいいの!」

可愛いのね。なるほど。

でも母のドレスをデザインするのに、直ぐには取り掛かれません。時間をかけて考えます。私の頭の中には「母のドレス」という雲がフカフカと浮かんでいて、何かに触れるたびにそれが成長するというような時間を過ごします。ある日ちょっとした出来事で雲はモクモクと成長して、具体的なテーマを持ち、やがてデザイン作業に入る事になります。結構長くそのきっかけを探していました。

 

ある日「あれ~~?由美さんも鼻歌を歌うんですね。〇〇さん(弟)もですよ。一緒ですね」と言ったのは、弟のパートナーです。

母は歌いながら家事をしていました。いつも楽しそうに歌っています。鼻歌もいつもの事です。ああ、それが私たちに伝わっている。と気が付きました。

子供会を仕切っていた姉御肌の母。高校生の時は演劇部を創立しています。学生合唱団で青春を謳歌しています。そして、「風と共に去りぬ」「若草物語」「ローマの休日」等など、50年代のハリウッド映画をたくさん見ていた母。

私たちもそのころの映画がテレビ放送であると、一緒に観ていました。

ああそうか、母の人生はハリウッド映画の煌きの様だな。ハリウッド女優の様なドレスを作ってあげたい。とデザインテーマが決まりました。

そしてグレース・ケリーとエリザベス・テイラーのウエディングドレスは、バービー人形にもなった有名なドレス。このドレスをイメージソースにしよう。デザインのテーマは「ハリウッドドレス」最高級のレースと生地で作ります。

ロイヤルウエディングに使われるレースを見つけました。グレース・ケリーのウエディングドレスを彷彿とさせます。三十六匁の正絹を使います。どっしりとした厚手のシルクは内側からあふれる光沢で品格を高めます。オートクチュール刺繍のポーチ。上半身を覆うベール。職人が丁寧に縫う見事なドレスが出来上がりました。

「ハリウッドドレス」の完成です。

このドレスは「光の庭」の看板ドレスとして取材や展示会にたびたび登場しています。私の仕事もずっと応援してくれたドレスでした。

 

 

さて、お別れの会2日目の朝、3歳の孫が棺をのぞき込み「おばあちゃん、朝だよ。起きて。ねえ、朝だよ。」としきりに声をかけていたと聞きました。

花に囲まれた眠れる森の美女ですが、目覚めることはありません。自然な寝顔に見えたのですね。うれしいです。

 

お昼前に母の兄弟たちなど親族が集まります。公益社のスタッフさんが整えてくださった母の思い出の品が並ぶコーナーに足が向きます。

たくさん並べられた母の写真をみて、ひとしきり思い出を語ります。「この写真のポーズは外国の女優の真似でお気に入りのポーズだったよ」と叔父が教えてくれます。こちらはきっと新婚旅行で父が撮った写真でしょう。笑顔が恋する乙女です。横浜のディサービスの七夕では「美味しいものがたくさん食べられますように」と短冊に書いて笑っています。スケッチブックいっぱいの母が描いた絵を見て、そして母が講師をしていたニット作品も手に取ってみます。ここに母の過ごした時間が見えています。

 

軽く食事をして次に思い出を語るお別れの会が始まります。

開始の音楽はマイフェアレディ「踊りあかそう」で始まりました。バイオリンとフルートの生演奏をお願いしていました。なんとも胸に響く音色です。新しい世界にワクワクして踊りあかしたい気持ちを歌っています。母はいつでもどこでもワクワクと何かを始めていたように思います。

叔父がお転婆な子供の頃を話しています。孫たちは初めて聞く話もいっぱいあったでしょう。叔母が父と出会った恋模様を話してくれます。私も知らない話がイロイロと出てきてビックリです。親の恋愛の話はちょっと気恥ずかしいですね。ホントに父に愛されていたのね。

父は50歳で急逝しました。その頃もまだまだ母にベタぼれの父の様子を叔母が話します。ホントに逝くのが早すぎます。でもきっと、もうここに迎えに来ていて母と一緒にこの話を聴いているでしょう。

そして母のカラオケ18番「白いブランコ」を生演奏の中 たくさんの花を棺に入れて、父の写真を胸に抱いて最後の記念撮影をします。いよいよ出棺です。

映画オズの魔法使い「虹のかなたへ」(和訳)

虹の向こうのどこか空高くに
子守歌で聞いた国がある虹の向こうの空は青く
信じた夢はすべて現実のものとなる

いつか星に願う
目覚めると僕は雲を見下ろし
悩み事はレモン飴みたいに溶けて
屋根の上へ溶け落ちていく
僕はそこへ行くんだ

虹の向こうのどこかに
青い鳥は飛ぶ
虹を超える鳥達
僕も飛んで行くよ

この演奏に送られて出棺しました。母はこの歌が大好きでした。

母の人生は、いつも前向きなエネルギーに満ちていたと思います。そして私たちを育んでくれました。

感謝を込めてエンディングドレスを贈りました。お見送りの皆様に美しい母を覚えてもらえてよかったです。

 

 

 

お客様からのメールをご紹介します。

お客様から、メールを頂きました。

ご紹介の了解は頂いてます。

この方は、購入のタイミングを悩みながらメールをくださいました。お母様の余命宣告のあと、自宅で看護をしながら、お看取りの準備に悩まれていました。

私からは「購入は6~7割の方がご生前です。ご逝去のタイミングですと、とても忙しくなりますので前もって用意される方も多いです。」とお伝えをいたしました。

その後、すぐにご購入いただいてます。

 

 

—お客様からのメール—-

少し前に購入させていただいた〇〇と、申します。

今秋、母は、旅立ちました。前もって購入していたので、すぐに、ドレスを着せてもらうことができました。

ドレスを着た母は、本当に美しかったです。

光に包まれて輝いてました。

訪問医の先生も、こんなのがあるのねと感動されてました。

Facebookで記事アップされてました。(笑)

エンジェルケアをしてくださった看護師さんも、美しいと絶賛してくれました。

訪問看護師さんの間で話題になってるみたいです。(笑)

葬儀屋さんからも、後からお礼のお手紙で眠れる森の美女みたいでしたとほめていただきました。

みんなから、きれいきれいと言われて、母の顔がほころんだような気がしました。

エンディングドレスを作っていただき、本当にありがとうございました。

おかげさまで、悔いなく母を旅立ちさせることができました。

〇〇〇〇

 

—主宰 杉下からの返事—

メールをありがとうございます。

~中略~

〇〇様がお母様の為に用意されたエンディングドレス。

とても美しくお似合いになっていたご様子が伺えて、胸が熱くなりました。

皆様の心の中にも美しいお母様がずっと残っていかれると思います。

お知らせくださいまして、ありがとうございます。

ブログも拝見いたしました。エンディングドレスのご紹介もいただいてありがとうございます。

~中略~

光の庭のHPもちょうどリニューアルをして、年内は情報の整理をしております。お客様の声、というところも作りました。そちらに掲載させていただきます。

急に秋が深まってまいりましたね。お疲れが出ませんように。

この度はありがとうございました。

 

—-お客様からの返信—

掲載の件 承知いたしました。

私も、早く購入することにためらいがありました。

でも、長く保存しても、大丈夫な材質で作られているという説明があったので、思いきって、購入いたしました。

亡くなってすぐに、着替えさせることができたので、身体も硬直しておらず、綺麗に着せることができました。

購入しておいて、よかったと心から思いました。

母は、食べ物が食べられなくなっていたので、骨と皮だけの細い細い身体でした。

「寝姿が、美しいようにデザインされた」と書いてあったように、ドレスを着たらふっくらとして、ふっくらとしたお袖のデザインが、とてもよかったです。

亡くなった時、ドレスを着た美しい母の姿が、目に焼き付いております。

家で亡くなったので、葬儀場に行くまで家で12時間くらいいました。

ドレスとベールの母は、本当に寝ているようでした。

最近は、納棺したときしか、顔に布をかけないみたいです。

納棺したあとは、顔が見られるように、ベールを取るので、

ベールで、髪の毛を隠すことができて、華やかになりました。

 

エンディングドレスを知らない人がたくさんおられます。

もっともっと広告して、必要とされているかたに、伝えてあげてください。

私の友人も私の話を聞いて、自分の母に着せたいと言ってましたよ。

私自身も、子供に頼んでいます(笑)

 

エンディングドレスを作っていただき、本当にありがとうございました。

〇〇〇〇

バターを塗る

ネットの記事の中に、産経新聞への投稿が紹介されていました。

産経新聞大阪版、夕刊一面で毎日連載中。一般の方から寄せられた600字のエッセー『夕焼けエッセー』

「家族の為にバターを塗る」という行為が、幸せな家庭、家族を愛するご主人を感じさせて、たまらなくなった。

どこの家庭でも、日常の中の景色で必ずある行為が、突然無くなってしまう事。

何気ない事が とても大切だと、教えてもらったエッセイです。

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バターを塗る

横浜に住む次男は盆と暮れには毎年家族と一緒に帰省してくれる。

わが家の朝食はパンときまっている。彼の奥さんや二人の娘が朝食を用意し、パンが焼けると息子の出番だ。

彼はホイホイとやってきて真剣な眼差まなざしで家族のためにバターを塗る。

夏の朝のあふれる光や、お正月の匂いのする暖かい台所、さんざめく若い人たちの息吹、そんな光景は私の人生の大切な一コマである。

今朝も私は朝食のトーストにバターを塗っている。

主人と二人でも広すぎた台所は、一人になった今ではもっとだだっぴろい。米寿を過ぎた主人は昨年道路で転倒して右半身をやられ自力では歩けなくなった。体調もすぐれず、いろいろあって先月から近くの介護専門のホームにお世話になっている。

私は“家での介護、もう少しがんばれたのではないか”と反芻はんすうしながらバターを塗る。

長男夫婦や介護関係の方々の助けを借りながらここまできたけれど、これが限界と私が入所を決断した。

手厚い介護を受け、穏やかな表情の主人を見るとこれでよかったのだとほっとする半面なんだか泣けてくる。

もう少しなんとかならなかったか、いや無理だったとバターナイフの先がにじんでみえる。そういえば元気だった頃、主人もパンにバターを塗ってくれた。丁寧に、惜しげもなくバターを塗ったパンの仕上がりは絶品だ。

何気ない日常がそこにあった。毎朝、私のすることは変わらないのに思いもよらぬ方向に人生は動いていく。

定まらぬ春の光の中で涙もろくなった私である。

大阪府 80歳